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吉村洋文の若い頃は挫折をバネに猛勉強!23歳で司法試験に一発合格

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大阪府知事として全国的に知られ、現在は日本維新の会の代表も務める吉村洋文さん。


新型コロナ対応や大阪・関西万博の開催などで注目を集め、日々公務やテレビ出演で多忙なスケジュールをこなしています。

そんな彼の若い頃はどんな人物だったのか、多くの人が関心を寄せています。

高校時代はラグビーに打ち込み、大学時代は司法試験合格を目指して猛勉強。

弁護士を経て政治家へと歩んだ吉村洋文さんのこれまでの経緯について、詳しくお伝えします。

目次

吉村洋文の若い頃は「勉強もスポーツもできる神童」

引用元:日本維新の会

プロフィール

●名前 吉村洋文 (よしむらひろふみ)
●生年月日 1975年6月17日生まれ ※2025年現在50歳
●出身地 大阪府河内長野市
●出身校 大阪府立生野高等学校卒業、九州大学法学部卒業
●保有資格 弁護士、税理士
●職業 大阪府知事、日本維新の会代表、大阪維新の会代表

地元では秀才で有名!中学時代の愛称は「よっしん」

引用元:日本食糧新聞

吉村洋文さんは1975年に大阪府河内長野市で生まれ、父親は電気関係の設計技師、母親はパート勤務という一般的な家庭環境の中で育ちました。

中学校は地元の公立校、千代田小学校と千代田中学校に通い、中学時代は「よっしん」と呼ばれ親しまれていました。

通っていた中学校は1学年に7クラスありましたが、成績は常に学年トップで、スポーツも得意だったため、同級生からは女の子にもモテていたようです。

「僕たちは『よっしん』と呼んでいました。彼はとにかく勉強ができました。中学校は一学年で7クラスあったんですが、成績はほぼずっと学年で1位だったと思います。陸上部に入っていて、スポーツも万能でしたし、女の子からもモテていましたよ」
引用元:現代ビジネス

神童から一転、秀才だらけの高校で存在感が薄れる?

引用元:大阪府立生野高等学校同窓会HP

進学したのは大阪屈指の進学校で偏差値70を超える、大阪府立生野高校でした。

中学時代、地元で“神童”とまで言われた吉村洋文さんでしたが、生野高校では同レベルの秀才が多かったようで、高校時代の同級生からは、印象が薄かったという声があります。

「彼が政治家になってから、時々高校時代の話が報じられると、みんなが『おとなしい』『目立たない』と言っているので驚きました。地元では神童でしたが、生野高校では彼ぐらいの秀才はいくらでもいたのだと思います。地元の同級生たちで『生野(高校)に行って埋没したんかな』と話していました」(中学時代同級生)
引用元:現代ビジネス

後に高校時代はラグビー部に所属し、勉強は二の次でラグビーの部活に熱中していたことを明かしています。

僕は高校生時代、ラグビー部。楕円球を追っかける生活にあけくれていました。勉強は二の次になっちゃってましたね。
引用元:大阪府立生野高等学校 同窓会HP

勉強よりもラグビーに明け暮れていた高校時代のようでしたが、意外にも高校時代の同級生には印象が薄かったのは、今の吉村洋文さんの活躍からすると意外ですよね。

吉村洋文は若い頃、進学の挫折から大逆転!司法試験に一発合格

大阪から九州大学法学部へ進学した意外な理由とは

引用元:吉村洋文公式Instagram

高校卒業後は、1994年に九州大学法学部に入学。

同級生の多くが京都大学や大阪大学へのの進学を選ぶ中で、九州大学へ進学することは珍しい選択でした。

その理由については、後の橋下徹さんや松井一郎さんとのてい談で、センター試験で思うような成果を出せず、現役で合格できる大学として九州大学を選んだと語っています。

センター試験で失敗して、なんとか現役で行けるところを探した」と語っている。
引用元:現代ビジネス

23歳で旧司法試験に一発合格!

引用元:読売新聞オンライン

大学進学で思うような結果を出せなかったことが挫折となり、大学2年生から旧司法試験の勉強に専念

本人も「これまでの人生で一番勉強した」と語るように、努力を重ねた末、23歳で司法試験に合格しています。

高校時代「大学に入ったら本気で勉強しよう」と決意していた吉村洋文さんは、同級生たちが大学生活を謳歌する中で、勉強に打ち込み、大学卒業後の1998年10月、旧司法試験に一発合格

当時23歳という若さでの快挙は、地道な努力を続けてきた結果だといえるでしょう。

吉村洋文の若い頃の激務と独立までの道

ストイックに働く下積み時代

引用元:吉村洋文公式Instagram

吉村洋文さんは25歳で弁護士として仕事を始めましたが、最初に所属したのは、東京の大手法律事務所「熊谷綜合法律事務所」でした。

当時、深夜までの残業に加え、土日も出勤するなど、非常にハードな勤務状況でした。

「仕事ぶりは極めて真面目でしたよ。毎日夜の11時か12時まで残り、土日もよく出勤していたようです。当時、うちの事務所は武富士から名誉毀損訴訟を頼まれていたので、彼にも担当に入ってもらいました」
引用元:現代ビジネス

若手弁護士として携わった武富士訴訟

この時期、吉村洋文さんは大手消費者金融・武富士の弁護団の一員として、同社の訴訟に関わっていました。

当時の武富士は取り立て方法や業務運営の問題点を指摘するメディアに対し、名誉毀損などを理由に次々と訴訟を提起していました。

武富士に訴えられたジャーナリスト・寺澤有さんは、当時の様子を次のように語っています。

「武富士から、私が執筆した記事が名誉毀損に当たるとして、2億円の損害賠償を求める訴訟を起こされました。吉村氏は武富士側の弁護士の中でも、一番の若手でしたね。彼を見たとき『こんな若さでスラップ訴訟に関わって、経歴に傷がつくんじゃないか』と、相手方ながら思ったことを覚えています。結局、裁判中、特に彼が発言することはありませんでした」
引用元:現代ビジネス

こうした経験を通じて、吉村洋文さん自身も自分の進むべき方向について、考えるようになったのかもしれません

そして2005年、司法修習の同期たちとともに独立し、法律事務所を立ち上げました。

吉村洋文の転機はやしきたかじんとの出会い

引用元:吉村洋文公式Instagram

大阪で司法修習の同期たちと法律事務所を開業した吉村洋文さんですが、転機となったのは、タレントのやしきたかじんさんとの出会いでした。

大阪で法律事務所を開設中、番組制作会社の社長と知り合い、その紹介でやしきたかじんさんと飲みに行き意気投合。そこから個人的な顧問を任されるようになったそうです。

まったく運みたいなもので、そんな気は全然なかったんですよ。大阪で法律事務所を開設し、やしきたかじんさん(歌手・タレント・ラジオのパーソナリティ)の顧問弁護士になりました。やしきさんの『そこまで言って委員会』という番組を作っているプロダクションの社長と知り合いで、その会社の顧問弁護士をやっていた。その社長から「やしきさんと一緒に飲みに行こうや」と誘われ、意気投合した。それで、個人的な顧問弁護士をぜひ、とやしきさんから言われたのがきっかけです。
引用元:東洋経済

橋下徹との縁を結んだのはやしきたかじん

引用元:X

やしきたかじんさんに気に入られた吉村洋文さんは、「政治をやるべきだ」と勧められ、やしきたかじんさんの紹介で橋下徹さんと引き合わされることになりました。

たかじんさんから気に入られ、『あんたは政治をやるべきや』と言われたそうです。それで、たかじんさんから橋下徹さんに引き合わされたと聞いています」
引用元:現代ビジネス

吉村洋文の「5秒で決断」したブレない覚悟

引用元:沖縄タイムス+プラス

派手さはないが、信頼される「愚直な努力家」

引用元:大阪維新の会

高校時代には“目立たない存在”だったとされる吉村洋文さんですが、地道な努力と誠実さで着実に信頼を積み上げてきました。


政治の世界でも「いつも下を向いて真面目にメモを取っていた」「真夜中まで政策を考えていた」など、誰よりも仕事に向き合う姿勢が評価され、今の地位を築いています。

ブレない姿勢と責任感で

阪市長選の打診に、わずか5秒の沈黙ののち「わかりました」と即答したというエピソードに象徴されるように、吉村洋文さんは覚悟と決断力を兼ね備えた人物です。


若い頃から一貫して、自分のやるべきことに真正面から向き合い、やり抜いてきたその姿勢こそが、多くの人々の共感と信頼を集めている理由なのかもしれません。


弁護士から政治家へ、そしてリーダーとして躍動する現在に至るまで、その芯の強さは変わらず、これからの活躍にも注目が集まります。

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